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■ 下地島へ続く道

・集落から浜崎浜へむかう「浜崎道路」です。

・便宜的に名づけた「タカ浜通」と繋がっています。

・浜崎浜は、下地島が最も近い浜です。

・道に動物の足跡と糞がところどころにありましたが、何か特定できませんでした。

(浜崎道路)
No.2713 ■ヒゲ [地図] 1990/08/20

■ ゴミ置き場

・離島では、時々こういう場所を見かけます。

・ためこまないで、ゴミ処理できる島に運ぶべきでしょうね。

(浜崎道路)
No.3223 ■ヒゲ [地図] 1990/04/30

■ 海への道

・下地島をのぞむ浜にむかう道です。

(浜崎道路)
No.2717 ■よこちん [地図] 1990/04/20

■ 上地島と下地島の間

・浜崎浜から見た下地島です。

・約400m離れています。

・干潮時に歩いて渡れるリーフエッジは、もっと東です。

・歩くと1時間かかるそうです。

(浜崎浜)
No.570 ■よこちん [地図] 1990/03/05

■ フナイヤ石

(浜崎浜西)
No.3221 ■ヒゲ [地図] 1990/02/20

■ 浜崎浜東

・岩場ですね。

(浜崎浜東)
No.3229 ■ヒゲ [地図] 1990/02/15

■ ジュゴン?

・昔、新城島の人はザヌ(ジュゴン)を専用の鍬で捕獲し、肉と皮を煮干にして、琉球王府に献納していました。

・今でも上地島の御獄ではジュゴンの頭蓋骨の上顎を、下地島では下顎を祀っています。

・今は見られなくなったジュゴンを、身をもって再現してくれているかちゅらんです(笑)。思わず銛でしとめそうになりました。

(上地島/浜崎-下地島/長崎間)
No.571 ■かちゅらん [地図] 1990/02/10

■ パナリ焼き

・1857年まで新城島でのみ焼かれていた八重山最古の土器「パナリ焼」です。

・昔、島に漂着した中国人男性が伝承したと言われています。

・新城島の赤土は焼き物にはむかないため、何かを混ぜなければなりません。しかし製造方法が現代に伝えられていなかったため、復元にはかなりの試行錯誤があったようです。

・1979年に下パナリ島で復元された土器は竹富島の「蒐集館」、西表島「民宿あけぼの」内「パナリ焼展示館」に展示してあります。

・復元にあたり古謡「パナリ焼アヨウ」が参考になったそうです。歌詞は「ピー三日干シサラシ、ピー五日干シサラシ、赤土バクナシ、白土バクナシ」です。

・製造方法に関して、以前は「蔓草・タブノキ樹液を赤土に混ぜ、手びねりで形成し、貝肉・蝸牛の粘液を擦り込み、茅をかぶせて野焼きしたのではないか」と言われましたが、最近では「赤土に焼いた貝の粉を混ぜたのではないか」とされています。焼かない貝の粉を混ぜても割れやすいし赤くもならないそうです。

・素焼きの壷に水を入れると、水が壷の表面に染み出し蒸発するため、気化熱で冷えて水が腐りにくくなります。水が漏れないはずの壷を、漏らすことで水を長持ちさせるとは、よく考えられていますね。

・下地島の古墳周辺では、かつて土器の陶片が転がっていたそうです。

・パナリ焼きは今ではネットで買うことが出来ます。

(竹富島/蒐集館)
No.572 ■コカ [地図] 1990/01/05

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