子どもにも大人にも人気があった作品
2006年10月07日 大地の芸術祭
前に紹介した「ブランコはブランコではなく」や「レインボーハット」とともに、子どもに人気があった作品を紹介します。
これは木村崇人「星の木漏れ日プロジェクト」です。
写真は昼間のように見えますが、夜の9時頃。
実は森の上にクレーンで巨大な発光体が吊されています。
木々の隙間からの木漏れ日をよくみると、全て☆型です。
実は光源自体が☆型をしているわけです。
編み鞄をかざすと、ご覧の通りです。
子どもはもちろん、おとなも無邪気に楽しめる作品でした。
また、それとともに自然科学的な視点から「不思議」を体験できる作品でもありました。
この作品は、必ずしも越後妻有の地域性に根ざしたものではありませんが、
やはりこれだけ大規模な仕掛けとなると、このような大イベントでしか実現できないのでしょうね。
これは十日町の中心街にあったレアンドロ・エルリッヒの「妻有の家」。
水平に置かれた建物の外壁が、斜めに立てかけられた巨大ミラーに写って、
まるで実際に家が建っているように見えます。
写真は、ええ歳したおじさんが遊んでいる様子。
この作品でも大人が童心に帰ってしまいます。
敢えて古民家ではなく現代の妻有の建物の特徴をコラージュした外観としています。
これは同じ作者の金沢21世紀美術館での作品。
これもちょっとした視覚上のトリックで、人を驚かせる作品です。
我が家でも前回、今回の大地の芸術祭は家族で見に行きましたが、
この手の作品は子どもを飽きさせないためにも有り難かったです。
こういった作品に代表されるように、大地の芸術祭では、サービス精神や娯楽的要素がある作品が多かったです。
全てが全てこうした作品ばかりでは、アートの遊園地みたいになってしまって、さずがに芸術祭としてはまずいですが、
傾向としては「わかりやすい」「明快な」「シンプルな」作品が多かったです。
菊池歩の「こころの花」(ビーズでつくった3万個の花)などはその典型でした。
人気があった作品にはそうしたものが多かったように思います。
話はやや脱線しますが、
大地の芸術祭では、いわゆる銀座や西天満の「現代アートのけもの道」でしか通用しない類の作品は少なかったです。
思うに、これはやはり制作時における場所性の違いというのが大きいと思われます。
都心の画廊とは違って、大地の芸術祭では人の土地で、住民の協力を得ながら制作を行う。
必然的に(意識するしないにかかわらず)作品は社会とつながらざるを得なくなる。
ひとりよがりな作品、住民にどう見られるかを全く意識しない作品が生まれる余地は少ないのです。
その結果、作品に間口の広さが生まれ、普遍性を獲得し、
普段現代アートに詳しくない方でも十分に楽しめる作品が次々と生まれていったのではないでしょうか。
一方では、大地の芸術祭の作品完成度のばらつきや、作品が分かり易すぎる、迎合的だとか安易だとかという批判も聞きますが、
ともすれば我が道を行きがちな現代アーティストがこんなに風に変われるなんて、感動的だと思いませんか。
この芸術祭自体が、アーティストの社会化訓練の場でもあったわけです。
このあたりにも、都市の現代アートが抱えている問題点と社会性の獲得に向けたヒントが隠されているような気がします。
全体の傾向として、作家がこれまでやってきた制作手法や方法論をそのまま持ち込んだだけの作品よりも、
越後妻有で展示するために一度白紙から方法論を考え直した作家の作品の方が、
断然、普遍性があり、現地の社会の中での強度があったように思いました。
(なお、今回から文体を丁寧語に戻しています。なんだか偉そうだったので・・・)