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最後のピースが嵌め込まれると、電流が走る

2006年09月16日 大地の芸術祭

大地の芸術祭は、参加したぼくにとって、これまでにない新鮮な体験だった。
これまでぼくが何度となく都会で開催した、どの展覧会とも違う反応がそこにはあった。
どうして大地の芸術祭は、あそこまで魅力的だったのか。
都心から何時間もかかるあのような山奥に、なぜ30万人の人が押し寄せたのか。
美術ファンのみならず普段、現代アートに縁のない人たちにどうして受け入れられたのか。
本欄はそんなことを考える「大地の芸術祭論」としたいところであるが、そこまで大上段に構えるのも荷が重いので、「大地の芸術祭あれこれ」と題して、時々思い起こしたことを書き連ねようと思う。

まずは、この写真を見て欲しい。
これは今回の芸術祭の目玉だった、クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンの「最後の教室」の1室。
廃校になった校舎全体をつかった大規模なインスタレーション作品である。
棺桶のようなガラスケースが並べられた白く清浄な空間。
一番奥の壁面には、剥がされた黒板の跡と、意図的に残された張り紙「本をひらけばみんな友だち」が。
遠くから聞こえる心臓の鼓動音とも相まって、見る者の胸を揺さぶる。

大地の芸術祭の作品が、通常の美術展と大きく異なるのは、このような「場の記憶」と密接に結びついた作品が多かったことである。
普段我々が美術館で作品を鑑賞する行為は、作品を虚構として了解することを前提としている。
多くの美術作品は(ドナルド・ジャッドの「特殊な物体」的なコンセプトの作品を除いては)何かを再現したり、作者の内面の世界を表現したものである。
少なくとも作品は、美術館という制度枠の中で、外界から切り取られて屹立している。
見る側は、特に意識することなくその制度を了解し、ちょうど動物園で虎の檻や、アシカのプールをのぞき込むようにして、作品を見ている。
しかし、大地の芸術祭は、サファリパークなのだ。

大地の芸術祭に参加する作家は、まず作品が置かれる場を読み取ろうとする。
そこで語られるべき記憶、歴史、人々の思いを丹念に発見していく。
ボルタンスキーの場合は、学校だった。
そこでかつて繰り広げられた、喧噪、笑い声、胸のときめき、仲間たちの存在。
私の場合は、蓬平集落の一時代を支えた養蚕業だった。
つらい桑取り、いやな臭い、蚕の成育の心配、美しい絹糸、自分で織った花嫁衣装。
国の農業政策によって切り捨てられ過疎化に歯止めがかからないこの地方には、語ってもらいたがっている地域の記憶、我々が昔持っていたはずの日本の原風景とでも言うべき記憶が無数にある。

作品は、そうした「うち捨てられようとしている場の思い」を顕在化させるきっかけであることが多い。
作品というピースが、場に嵌め込まれたとき、明らかに電流のようなものが走って、空間的・時間的に場全体に生命がみなぎる。
作品効果の及ぶ範囲(観る者が作品を通じて想起する範囲)は、現場である古民家や廃校を遙かに超え、集落全体、そして遙かな過去へとひろがっていく。
作品はただの切り取られた表現ではなく、観客が今いるその場全体を作品世界へとつなげていく。
それが大地の芸術祭の魅力なのだ。

(写真=繭の家-養蚕プロジェクト 作品C「雲の切れ間から」 小箱の蓋を開けると真綿と繭でつくられた蓬平の景色が広がる)

コメント

僕もたけちゃんと似たような話をしました。

少し違うのは、街中でも美術館でも「場」を意識した作品はあります。また山中でも石仏を置いたり、寺社に奉納したりします。美術館やギャラリー以外での展覧会もあります。しかしこれらは建築ではよくあっても美術ではあまり一般的ではありません。展覧会はやはり「人が来てナンボ」だからです。

「祭」という「期間限定で来て去ってしまう」形態をとることによって人が来ることを約束し、「山中の過疎地」というあまり一般的ではない、しかしハードとして魅惑的な会場を使うことが許されたのが特別なのだと思いました。

そうですね。
都会でも人がいて、様々な場の記憶が蓄積しているので、同様のことは可能ですよね。
例えば神戸では、CAPがある旧ブラジル移民センターとか中華街とか。
でも都市では、周りにあまりにたくさんの情報が交錯しているので、そうしたノイズにかき消されがちかも知れないですね。
(話は変わりますが、個人的には来年この町で行われるビエンナーレがどういうものになるのか、ちょっと心配です。)

今回つよく心をゆさぶったのは、作品の点在する里山全体が人間の強い意志によって作られたものだからだと思いました。
杉山、棚田、瀬替えされた河川、山道、民家、径庭等、目に入るほとんどのものが人間が生きるために作ってきたもので占められていた。
里山にこもる先人たちのエネルギーに打ち勝つべく作家も最大限の力をふるった。
都市での展覧会と違うのは「切実さ」があるからでは。環境、作品共に。

確かに「SATOYAMA(里山)」は自然でありながら人の手でつくられたものであり、しかも長い時間をかけて作られた「人と自然の調和」がありますね。この切実で完全な調和は都市にはありません。

また2人の時に直島との比較もしましたが、島との差、規模の差もありますね。

その調和した環境に作品をプラスするには、より「場」を意識し、環境を理解し、作家の持てる力を最大限発揮する必要があったわけですね。なるほど。

ぼくもこの地方に来るまでは、あるがままの自然が一番美しいと思っていたのですが、丹念に人の手が入った自然というのも、それに負けない美しさがあるのだと思いました。それは意志の美しさとでもいうようなものです。
問題なのは、中途半端な自然で、特に山里が荒れて自然に還っていく様子は痛々しいものがあります。見た目だけでなく、これまで保たれてきた意志が壊れていくという意味で。
こうした趨勢に歯止めをかけるのは難しいのですが、大地の芸術祭の作品のいくつかは、これに歯止めをかけたいという思いから発想された作品も少なくないです。

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